プログラミング教育の目標設定はどこ?

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こんにちは、教育に興味を持ってちょくちょくそう言ったイベントに参加しつつ自分の教育が一番ままなっていない西森です。

最近プログラミング教育のイベントに参加する機会があったのでその場で感じたことについてまとめきれていなですが投稿しようと思います。
プログラミングの義務教育や、近年のプログラミング教育の関心の高さを見ていて思うことは一体それで学んだ後どうするの?ということ

プログラミングの学習の場で目にする光景として、アルゴリズムやAPI、メソッドの使い方を教え、それを利用して課題(クイズ)を解くという一連の流れの中で
問題を正しく解いた生徒に対して「すごい」、「賢い」と声をかけ生徒もそれを前提として動いてる。

ただ「すごい」や「賢い」というのは果たして結果、ゴールを表す言葉として適切なのだろうか

例えば対象を料理に変えてみるとその一連の流れは以下のようにプログラミングとよく似ている事が分かる。
1.食材を用意(デバイスを用意)
2.調理法(アルゴリズム、API)を学習
3.盛り付け(デザイン)
4.人に食べて(実行)もらう
では料理における結果、ゴールとはなんだろうか?
それは食べる人に「うまい」と感じてもらう事だろう。

プログラミングにおける「すごい」、「賢い」
料理における「うまい」
そこにある違いはなにか?
それは対象に対してのゴール設定が「将来」に対するものか「今」で完結しているかだ。
プログラミングにおける「すごい」、「賢い」とは
「こんな事が出来るんだすごい!だったら…」や
「へー賢いね、将来が楽しみだ」
と今そこにいる人を満足させるわけではなく、将来に対してのステップの一つといった意味が多分に含まれている。
一方、料理における「うまい」とは将来のいつかに期待しての言葉ではなく、今その瞬間に対する、完結した言葉である。

プログラミングと料理、俯瞰してみると同様の学習過程のこの二つで異なる結果の今と将来。
プログラミング学習における結果が目標の為のステップの一つになっている(パーツ的なもの)のに、対して料理は学習の結果そのものが目標となっている。

この違いを考えるとき個人的な感覚では
お笑いがそうなように、スポーツがそうなように、音楽がそうなように、料理がそうなように
学習者本人を含め人はステップの一つではなく、今その場で完結する感情を欲しているのではなないかと思う。

だとすると、プログラミング学習における違和感とは学習させる側、する側のゴールとして何か人の感情を完結出来るものを設定できていないということなのではないか

もし、プログラミングというものをある種料理のように広く普及していくという未来像を抱くのではあれば、そういった学習のゴール設定が必要になってくると思う。

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Yuta Nishimori

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